沢渡日記

日々徒然

20190714

店を出るとまだ雨が降っていた。私はビニール傘を差して足早に通りへ向かった。午前二時半。タクシーの中で彼が待っていて、私を見つけると少しドアを開けて合図した。彼の隣に乗り込んで運転手に住所を告げると、車は静かに走り出した。遅くなってごめん、彼が言った。仕事終わった?結局二回修正が入ったよ。彼は少し疲れた顔をしていた。お疲れさま。私は手を伸ばしてこめかみと髪にそっと触れた。近所のコンビニエンスストアの前で降ろしてもらい、彼は缶ビール二本と日本酒を買った。部屋に着き、私は窓を開けて風を入れてから、低いボリュームで音楽を流した。飲んでて、と彼に声をかけてシャワーを浴びに行った。椅子に座った彼のそばを通り過ぎるとフワリとシャンプーの香りがした。髪を拭きながら戻ってくると、彼はビールを飲みながらiPhoneでサッカーの試合を観ていた。隣に座って飲みさしのビールを少しもらった。メッシが好きなんだ、画面を見ながら彼は嬉しそうに呟いた。それからW杯の話になった。にわかで観る程度の知識しかない私は、キレイなサッカーをする国が好きと言った。スペイン?と聞かれて、スウェーデン、と答えた。ビールをあらかた飲んで、飲めなかった日本酒は冷蔵庫で冷やした。歯ブラシ忘れちゃった、という彼に来客用の歯ブラシを出して渡した。変な感じだなと思った。日常みたいに彼と一緒に歯を磨いていることが。灯りを消して、二人でベッドに潜った。空が白み始めているのか、カーテンの隙間から薄く光が入ってきていた。絡みつくように抱きつく彼の腕の重さがよかった。

 

20190713

夜になってから、身支度をして出掛けた。外で煙草が吸いたいと言う彼が少し前に出て行き、私は音楽を止めて部屋の電気を消した。傘は一つしか持たなかった。通りの向こうにいた彼に傘を差しかけ、持って、と渡した。電車に乗って四つ目の駅で降りた。駅前の通りは煌々と明るく、一度眠っているから変な感じだね、といい合った。夜のお祭り会場に着くと、男友達がバーカウンターに立っていた。久しぶり。少し話して奥に進むと女友達がたこ焼きの屋台を出していた。来てくれてありがとう。一番奥には日本酒を出すバーがあった。飲みましょうか。二人で話して一杯ずつ日本酒を頼んだ。わさびクリームチーズバゲットも頼んだ。タープの天井には小さな提灯いくつも吊るされ、雨が降り込むせいかカウンターの端は濡れていた。小さな透明のカップで乾杯をして、すいと日本酒を飲んだ。美味しいね。バゲッドを分け合って食べた。もう少し何か食べる?移動して私は女友達からたこ焼きを買った。壁にもたれてたこ焼きを食べていると、かっこいい人だね、女友達が耳打ちした。そうね、と思った。彼は古道具屋の出店の前で店主と話をしていた。ついさっきまで、私は彼の好意の種類が全くわからなかった。ただ人として興味があるんだなと思っていた。昼寝から目覚めた時に洪水みたいなキスをされて、そうか、と気づいた。バーカウンターでお喋りしていると彼が隣に来た。古道具屋で迷っていたものは結局買わなかったようだ。おなかすいたね、どこかでちゃんと何か食べようか。お祭り会場から出て、一つの傘に入って歩き出した。遠く向こうに繁華街の滲む光が見えた。あっちから来たっけ。もう一本先じゃない。彼が傘を持ち替えて私の左側に立った。こっちの方がよく聞こえるから。

20190712

夜、バーで白ワインを飲んでいた。雨は次第に強くなり、無数の雨粒が窓を打ちつけていた。通りの向こう側に見えるビルの光がいくつも滲んでいて、椅子にかけたままぼんやり見下ろしていた。綺麗だ。店の中には静かなアンビエントが流れていて、くぐもった水音に包み込まれるようで心地よかった。あなたのことは諦めますね。彼にそう言った後、気持ちがスッと軽くなった。悲しくはなかった。今はどうなのだろう。考えてみたけれどわからなかった。斜向かいの男性三人連れが大声で話していた。店主がさりげなく合いの手を入れて、一人が女の子の話を始めた。私は白ワインを飲み切ってグラスをテーブルに置いた。彼とは、これからも友達として仲良くしたいとは思えなかった。そういう量の好意ではなかった。彼は私の百パーセントだった。でも、状況的に二人で現実を過ごすのは難しいこともわかっていた。そして、今の彼が私ほどの熱量を持たないことも。本をたくさん読んで、長い時間考えた。そして、叶わないんだなと静かに思った。この先も茫漠とした時間を過ごすなら、いっそ彼に振られたかった。店主に白ワインをもう一杯頼んだ。雨まだ降ってますよね、店主に聞かれて、ええ、と答えた。もう少しここでぼんやりしていてもいいですか、グラスを受け取りながら私は尋ねた。僕の方はいつまででも。店主がやわらかく答えた。私はニッコリして、また窓の外を眺めた。もうあの人には会えない。会ったらまた好きだと思ってしまうから、もう会わない。そのことが細胞の一つ一つに染み渡るまで、どれくらいの時間がかかるのか。

20190708

パン屋でレーズン食パンを買ったので、ピクニックに行くことにした。タッパーにミニトマト、湯がいた小松菜、チーズ、林檎を詰めて、ステンレスボトルに紅茶を注いだ。日差しには僅かに金色が混ざっていた。午後四時。遅いランチになってしまった。公園に着いてテーブルにチェックの大判ハンカチを敷き、食事にした。遠く斜向かいに見える桂の木のベンチには、小柄な老夫婦が座っていた。あの場所は人気があるのだ。レーズン食パンは三切れも持ってきたのにペロリと食べてしまった。チーズと合わせると美味しかった。紅茶を飲み切って、散歩をした。藤棚にはこんもりと緑の葉が生い茂っていた。七月に入って樹々の緑が一段濃くなったような気がする。林の小道を進むと、日差しが遮られて涼しくなった。背の高い額紫陽花が水色の花をつけていた。昨日と同じ木陰のベンチに座ってぼんやりした。微かな風が髪を揺らした。ここにいると森の中にいるみたいでしょう。私が言うと、隣に座っていた彼は、目を細めて気持ちよさそうな顔をした。何を話したらいいかわからなくて、思いつくままに話をしながら、でも一緒にいて何も話さないのが一番好き、と矛盾したことを言ったりした。時折、やわらかな葉擦れの音がした。遠く向こうで小鳥の高い鳴き声が聞こえた。彼が隣にいるのは自分一人でいる時にとても似ていた。そんな風に誰かに思ったことがあっただろうか。いつのまにか辺りが薄暗くなってきていた。私はリュックを背負って立ち上がった。林を抜けると明るい夕空が見えた。夏の甘い青。角を曲がり、遠くまで続く芝生を眺めた。キャッチボールいいね、と言った彼の声を思い出した。

20190707

林檎の皮にはポリフェノールがたっぷり含まれているのよ。皮ごと食べて欲しかったけれど言うのは控えて、キッチンで薄く皮を剥いた。薬缶がシュンシュンと音を立て始めた。火を止めてマグを準備し、紅茶のティーパックを袋から取り出した。これ…。リビングから声がしてそちらに行くと、一輪挿しに生けたカーネーションの茎が半分からクタッと折れていた。さっき生け直したばかりなのに。私はカーネーションを花瓶から引き上げて、これくらいかなぁ、と彼に確認しながら茎をハサミで短く切り落とし、丈の低い花瓶に生け替えた。送別の?彼に聞かれて、そう、一週間くらい前にいただいたの、と私は答えた。そんなに持つんだね。紅茶を淹れて、薄く切った林檎と一緒にテーブルへ運んだ。どうぞ。窓を開けて向こうに見える緑を眺めながら、二人でお茶を飲んだ。空はくっきりと晴れていて、雲ひとつなかった。カーテンを揺らす風を感じながら、誰かとゆっくり過ごす土曜日は久しぶりだと思った。俯いてマグに口をつける彼を見た。伏し目がちの表情がいいなと思った。テーブルには銀色の腕時計が置かれ、煙草のソフトケースのフィルム部分には吸い殻が一本入っている。林檎を食べる姿を見るともなく見ながら、不思議だとまた思った。この人は私にとってどのような縁の人なのだろう。お茶を飲んだら、私は口を開いた。公園を散歩しませんか?いいですね、彼は静かに答えた。

20190706

夜更けに二人で公園を散歩した。風のない夜だった。白く浮かび上がるバラの匂いをかぎ、ベンチに並んで座った。それから彼と長い話をした。さっきまでの浮き足立ったデートが嘘みたいな、静かな時間だった。彼が話し終えるのを待って、私は彼の手を握った。大丈夫だよ。見上げた夜空は漆黒で、紫色の雲が薄くたなびいていた。あなたが大丈夫だと思えないのなら、私が代わりに思うから。彼は黙っていた。私はばかみたいに真剣だった。もし私がヒーラーだったら、手のひらから伝える熱で彼を癒せるのに。彼が弱く笑って大丈夫だよといった。少し寒くなってきたね。ベンチから立ち上がって、ゆっくり歩いた。大きな木々が並ぶエリアに差し掛かると、夏の緑の匂いがした。あなたのことが好きなんだと思う、私は言った。彼は私を見た。まだどんな人なのかよく知らないけれど、生き物として。私がそういうと、生き物として?と彼は少し笑って聞き返した。こういうことは説明が難しい。ただ、隣にいる感じがとてもいいと思った。それからどちらともなく抱き合った。

20190705

歯を磨いてからフリスクを口に含んでうがいをする。眉を整え、唇にグロスを薄く乗せる。櫛で髪を梳いて、シャツの襟を整える。ネックレスのチャームの位置を真ん中に戻す。外に出ると夜風が柔らかく吹いている。通り過ぎる路面店は皆テラス席を特設し、多くの人で賑わっている。行き交う人は皆楽しそうだ。週末の夜。いつもの角を左に曲がる。待ち合わせまでもうすぐ。これから100パーセントの人に会いに行く。