沢渡日記

日々徒然

20190918

夜、林檎を食べながら、欠けていく月を眺めた。来年の今頃は何をしているだろうな、と思った。三年前は、ずっと好きだった人と明け方にキスをした。二年前は、雷に打たれるような一目惚れをした。一年前は、恋人を愛しすぎて百年分の幸せを感じていた。そして今年、天使みたいな人と二人で月を眺めた。遡って思い出すと延々と出てくるなぁ…と思う。キッチンでタイマーが鳴った。ゆで卵が茹で上がったようだ。鍋からあげて水につけて、食器やお弁当箱を洗い始めた。明日の朝は鯖を焼いて、榎とセロリを炒めて…お弁当のメニューをなんとなく決めた。生プルーンを二個とR1ヨーグルトをテーブルに運んで椅子に座った。テレビからは凪のお暇の二話目が流れていて、凪ちゃんとゴンさんがピクニックをしている。ツナ缶のっけトースト、召し上がれ。青空の下、緑の芝生。素敵なデートだ。私は特に何も持っていないけれと、思い出だけは沢山ある。来年もまた好きな人と美しい時間を過ごしたいと思う。なんとかそれまで生き延びましょう。

20190916

昨日の午後、女友達と会った。フレンチレストランの出店で、赤ワインと牛肉を包んだクレープや、茸のクレームブリュレを頼んだ。噴水の脇で食事をしながら、最近の話をした。恋愛の話が多かった。幸せになりたいね…と彼女が呟いて、うん、と頷いた。そろそろ移動しようか。立ち上がって、出店がひしめく中をくぐり抜けるようにして歩いた。真っ直ぐ歩くのが難しいくらいの人混みだった。信号を渡って別のブロックに差し掛かった時、店先に知った顔を見た。見かけるのは久しぶりだった。ひょろりと背の高い、猫背のフォルム。オレたちは高さが合わないから、彼がいつか私に言ったのを思い出した。背を向ける彼とすれ違いながら、もう話すこともない人だ、と静かに思った。人混みを搔き分けるように進んで、広い道路に出た。こっちから行こうか。女友達とブラブラ歩いてベトナムフェアへ向かった。バインミー食べたいけどさっきフランスパン食べちゃった、チェー食べたいな、などと二人で話した。平和な夕暮れだった。雲間から覗くオレンジ色の空を見上げて、元気そうな姿を見れてよかった、と思った。彼には感謝していた。彼のことを好きすぎて自分を粉々にしてしまう前に、向こうが私のことを嫌いになった。その後、しばらく復活できなかったけれど、あのとき命拾いをしたと思う。ベトナムフェアではステージで歌のショーが始まるところだった。チェーが売り切れで一時間待ちだって〜!友達が屋台の張り紙を見て残念そうな声を上げた。

20190915

夕方、空は少し曇って、雨が降りそうだった。カーペットの上でゴロゴロして過ごしていたけれど、八百屋へ買い出しに行こうと起き上がった。着替えをして洗面台で歯を磨きながら、黄色い歯ブラシが収納ケースの一番端に収まっているのを眺めた。昨日の夜、歯を磨きたい、と彼が言って洗面台へ向かった。歯ブラシある?と声がしたので、あなたのはそこに入ってるよ、と私は寝室から返した。間違いない?と聞かれて、間違いないと答えた。私の家で歯を磨く人はあなたしかいないから。それは特に言わなかった。シャワーを浴びてからベッドに潜り込むと、彼の腕が私の背中をぎゅっと抱き寄せた。想像よりコンマ二秒早く。歯を磨き終えて、ピンクの歯ブラシを黄色い歯ブラシの隣にポンと差し込んだ。外に出て、ぶらぶらと八百屋まで歩いた。店先でおばちゃんと話しながら、生プルーンと茄子とミニトマトを買った。セロリの大束も。買い物袋を提げて歩きながら、空を見上げた。私は彼にめちゃくちゃ優しくしたくて、寛いでほしくて、幸福にしたかった。それは多分彼も同じという気がした。でもどんな愛なのだろう。説明がつかなかった。わからないことはわかるまで放っておこう。いつものように。家に帰ったら生プルーンを食べよう。

20190914

真夜中を過ぎて公園のベンチに着くと、彼は先に来ていた。目を閉じて仰向けになった彼の腕をそっと揺すった。起き上がった彼はトロンとした目で、さっきタクシーの中でウイスキーを飲んでさ…と呟いた。木立の向こうに白く光る満月が見えた。きれい、と私が言うと、さっきは左の端の方に見えたのに、もう真ん中まで来てる、と彼が言った。赤ワインの瓶を開けて、二人で回しながら飲んだ。会うのは夏以来だった。でも特にそんな感じはせず、自然だった。昨日考えていたことなんだけど、と彼は話し始めた。物語性についての話をしていた時、小池昌代の詩が頭に浮かんだ。ただそこに溢れよ、確かそう綴られた一編。溢れてる人っているのよ、私は言った。激しい人や強い人のことじゃなくて、静かな人でも。自分もそうありたいと思っているし、そういう人をいつも探してる。私が言うと、彼はわかった、という顔をした。立ち上がって木立に近づき、私は満月の写真を一枚撮った。背中の向こうから、彼が写真を撮った音がした。多分、女の背中と満月をファインダーに入れて。私は振り返ってポケットからアルミホイルを出して、これ灰皿になる?と尋ねた。なるよ、と彼は答えた。吸いたいな、と私が言うと、彼は煙草に火をつけて私に渡した。夜気と共に煙を深く吸い込んだ。十年ぶりの煙草は美味しくて、苦かった。二人で立ったまま月を眺めた。煙草が短くなるまで、一口吸うごとに指先で渡し合った。フランスにいた時みたい、と彼が呟いた。

20190913

図書館から出ると、微かな風が吹いていた。少し肌寒い。夜空を見上げると、丸く静かに光る満月が見えた。今夜は中秋の名月だ。歩きながらメッセージを送った。月が綺麗ですね。今夜はどちらですか。電車に乗って、一つ先の駅で降りて喫茶店に入った。店は空いていた。私は窓際の席に座って、店主と少し話した。ナポリタンとレモンスカッシュをお願いします。カウンターに積まれた文庫本から、枡野浩一の短歌集を読んだ。永遠の愛を誓うよ永遠もあと半年で終わりらしいし。どこか乾いていて、本当は優しくしたいのにできない。そういう切実で胸を突く歌が多かった。ナポリタンの太麺をこっくりとしたソースに絡めて食べた。美味しかった。月見酒をしましょうか。彼とメッセージのやり取りをした。彼はまだ仕事中で、まだもう少しかかるという。ふと、私は夜中に男に会うことが多いなと思った。レモンスカッシュが出てきて、ストローで飲みながらぼんやりした。つきあって日が浅いのでまだ君の傷つけ方がよくわからない。この心情はよくわかった。昔は相手を傷つけることで想いを測ろうとしていた気がする。今はもうそんな風にはしないけれど。閉店の時間になって店を出た。駅までの道を歩きながら、久しぶりに甘やかな気持ちの一時間だった、と思った。男と待ち合わせを決めるまでのやりとり。私はずっと、どうして彼に会いたいのかわからなかった。自分の気持ちの色は彼に会えばわかるのかもしれない。最寄駅で降りて、コンビニに寄った。赤ワインの小瓶を一本買って、ブラブラと家に帰った。

20190908

昼下がりに盛り蕎麦を食べながら、凪のお暇、八話目の録画を観ていた。過呼吸で倒れた慎二は、糠床のタッパーを取りに来た凪ちゃんに泣きながら好きだと言った。そして、慎二はそのままゴンさん宅で一週間のお暇に入り、アパートの住人達で共同生活のような不思議な流れになっていった。ゴンさんは慎二のことが心配で、凪ちゃんに会えば元気になるかもしれない、と思って連れて来たと言う。一方で自分が凪ちゃんを好きになったことを慎二に相談する。彼の中でそこに矛盾はない。ゴンさんは恋愛未明の天使なのだ。森蔵ママがその話を聞いた瞬間にビールを噴いて、それ両立できないよね?とコメントした。まさか凪ちゃんのこと、ガモちゃんとシェアしようとでも思ってるの?盛り蕎麦を食べ終えて、アイコトマトと生プルーンを二つずつ食べた。両方ともつやつやで、宝石みたいに綺麗だ。夏の明け方、ソファーに座って話をしていた時のことを思い出した。ふんわり好きな人はたくさんいるよ。私が言うと、それって誰のことも好きじゃないってことなんじゃないの?と百合の人は返した。そうなのかなぁ、私は呟いた。シェア…。またわからなくなってしまった。プルーンの皮で指先が紫に染まってしまった。手を洗ってから少し巻き戻して再生すると、凪ちゃんと慎二がベランダ越しにぬか漬けを食べている。

20190830

薄闇の中、ソファーに座ってぼんやりと音楽を聴いていた。午前一時。今週も勉強漬けだった。頭と体の疲れがひたひたと押し寄せて、ふわりと眠気に包まれた。隣、いいですか?声をかけられて、見上げると百合の人が立っていた。今夜も美しいなと思った。夜に咲く白い百合。もちろん。私は返事をして、彼を隣に促した。トニックウォーターってブラックライトで光るのよ。私はジントニックのグラスを持ち上げて言った。それ俺が教えたんじゃん、と彼が言って、あ、と私は思い出した。そういえばいつかの夏に、彼と同じ話をしたことがあった。キニーネって成分なんだよ、と彼は言った。そうだ、それも聞いた。私は照れて笑った。それから音楽を聴きながら二人で何気ない話をした。彼の声は木管楽器のようで聴き心地が良かった。少し早めのテンポの、低いクラリネットの音色。知り合ってから一度も、私は彼に恋をしたことがない。でも、不思議と信頼はしていた。多分、生き物として。この信頼はどこから来るのだろう、とぼんやり思った。会話が途切れて沈黙が降りた。この前、素敵でした。私は呟いた。それで彼には伝わったようだった。彼はさりげなく品のない冗談を口にして、でも彼の上品さは少しも失われなかった。詩のような人だと思った。センスがいいのね、私はそう言ってニッコリした。