沢渡日記

日々徒然

20190807

午後からデータの作成を始めた。説明を受けながらディスプレイを見てキーボードを打ち、マニュアルに目を落として確認する。それを繰り返していた。少し眠気を感じて、ポーチからミンティアのケースを出して一粒口の中に入れた。眠そうだった背中合わせの子にもこっそりと渡した。斜め向かいの席では打ち合わせが始まっていた。何気なく視線を送ると、その人と目が合った。不自然な瞬きをして目を逸らすのを、見なかったことにした。タブを切り替えて表示を確認していると、彼が自席の方へ戻っていくのが見えた。私は横顔をちらりと見て、ステンレスボトルのココアを一口飲んだ。青のマーカーでマニュアルにラインを引き、小さく書き込みをした。料率の二分の一を算出して入力すること。その人は同じフロアの中にいながら、ほとんど接点がなかった。数回、業務の話をしたことがあるだけだった。私は彼の目に不思議と吸い寄せられた。理由は分からなかった。どうしてだろう、と私が問うように見つめると、同じような視線が返ってきた。データが出来上がったので、印刷のチェックに入った。フォーマットをいくつか切り替えてレイアウトを確かめた。彼が水のペットボトルを片手にフロアの奥へ向かうのが見えた。気持ちが滲んでいく、と思った。不意の瞬きは偶然かもしれなかった。でもそれだけで私には十分だった。ゆっくりでいい。もし滲んだ気持ちが溢れ出てしまったら、その時にまた考えればいい。私はマニュアルのページをめくって、四角く囲まれた注意書きに目を通した。

20190804

目覚めると、窓の外にはきれいな青空が広がっていた。午後三時四十分。生乾きの髪をドライヤーで乾かして、床にぺたんと座ったまま窓からの風に吹かれた。今日も海に行けなかった、と思った。朝、百合の人が青いタクシーに乗る姿をベランダから見届けると、ベッドからシーツと枕カバーを外して洗濯機を回した。使いさしのバスタオルも一緒に入れた。シャワーから出て、頭にタオルを巻いたままグラスの水を二杯飲んだ。テーブルに置いたアイビーの葉先に少し触れると、ぷる、と震えが伝わってきた。また成長している。ふいに眠気が押し寄せてきて、床にころんと転がってウトウトした。明け方、彼の隣で私は眠りに落ちた。それは滅多にないことだった。他の男と何が違うのか考えたけれど、長い知り合いであること以外は思いつかなかった。不思議と皮膚が警戒を解いた。彼のことは人として好きではあったけれど、隣で眠る相手として一度も考えたことがなかった。私という外側は無自覚で、私の内側にいる人が直接、彼の内側にいる人にアクセスしたのかもしれなかった。最近そういうことが増えている気がする。三年前、初めて彼に会った夜を思い出した。整髪料を持ってないからオリーブオイルをつけてる。階段の踊り場で、椅子に座った彼はそう言って懐っこく笑った。花のような人だと思った。立ち上がってドライヤーとトリートメント剤を片付けた。お腹すいた。これから着替えて散歩に行って、買い出しも行こう。ふと、松尾芭蕉の句を思い出した。真夏はゆっくりと着実に過ぎていく。今朝の記憶もまた、夢の跡のひとつなのか。

20190802

タクシーを降りてコンビニへ寄った。彼が白ワインを買ってくれて、ぶらぶらと家までの小道を歩いた。家に着くと熱気がこもっていて、窓を開けて風を入れた。全然変わってない、隣に立った彼はそう言って窓の外を眺めた。冬しか来たことなかったでしょう。そうだね、一面真っ白だった。小さく音楽をかけて、二人で白ワインを飲んだ。彼とは三年半、一度も会わなかった。でも二人で話しているとあまりに自然で、時間が経った気がしなかった。眼鏡の形が変わっている、それくらいかもしれない。自分では選べない環境の中で得られることもあるよ。彼は言った。そうやって変わっていく人が九割。わかるよ、私は答えた。空のグラスをテーブルに置いて、彼は続けた。でもその世界だけでは本当の自分を失う気がする、だからフラフラと飲み歩いてしまう。四年前も同じことを言っていたな、と思い出した。二つの世界を行き来すればいいじゃない。私は答えて窓の外を見た。漆黒の空に月の姿はなかった。新月かもしれない。…さんは全然変わらない、彼が言った。あなたもね。そう答えながら、この人にとって私は向こう側の世界にいる女なんだな、と思った。送りましょうか。私が言うと、彼は立ち上がって、ギュッとしたら帰る、と言った。それから長いハグをした。懐かしかった。でも私はもう彼のことが好きではないんだなと気づいた。会わなかった時間のことを少し思った。キスを躱して顔を上げた。キリがないから終わり。ニッコリとそう言って、足りない、と甘える彼を玄関まで送った。

20190801

仕事明け、川を眺めてしばらくぼんやりした。毎日受験生のように勉強しているので、職場を出ると一度リセットしたくなる。今回もまた修行感たっぷりだなと思う。これまでを思い返すと、どこに行っても厳しい師を見つけて従事している。自分が求めているのもあるのだろう。きついけれど成長はする。家に帰って窓を開けて、暑いので床に寝そべっていたら眠ってしまった。宅配便が届いたので封を開けて中身を取り出した。今の職場で仕事に使うものをいくつか買った。製図用の青い定規、蓋つきのステンレスカップ、黄色のペンケース。ダンボールを片付けてから食事にした。イカスミ納豆そば、ささげとソーセージの炒め物、大根サラダ。食事の後、ちょっと休憩しようと音楽を聴いて床でゴロゴロしていたらまた眠ってしまった。無理やり起きてシャワーを浴びに行った。髪を洗いながら頭の中で仕事の復習をした。明日は先に食事を済ませていいですか。髪を拭きながら前の恋人にメッセージを送った。返事はすぐに返ってきた。氷をたくさん入れたグラスに水を注いで飲んだ。過去の恋人と会うのは楽しい。気心が知れているからデートの精度が高いし、自分の中には楽しかった頃の記憶しか残っていない。珠玉のコレクションのようなもの。

20190731

夕食には暑いけれど長崎ちゃんぽんをすすった。案の定汗びっしょりになった。ひと息つこうとドラマ、凪のお暇を観ていたら眠ってしまった。いつも同じパターンだ。十時半に起きてぼんやりしながら食器を洗った。テーブルについて手帳に予定をメモしていると、土曜に一件バッティングを発見した。明日調整しなくては。シャワーを浴びてから、連日の暑さで突如できたあせものケアをした。Macで音楽を聴いていると、ふと音が止んだ。ルーターの様子を見てみると一度切れており、またすぐにネットが接続された。本体が熱を持っていたので風に当てた。暑いのでひんやりした曲しか聴けない。自然と無機質なテクノばかりを選んだ。明日も仕事がハードなので早く眠りたいけれど、暑くて寝付けそうになかった。アイスノンを持ってベッドに入ってから、頭の中で仕事の復習を一通り行った。少し疲れて、目を閉じて前の恋人のことを思った。あの夜、彼と普通の話がしたかった。日常のことや仕事のこと、それからこの先のこと。少しずつ心を開いてくれている彼をそっとしておきたかった。彼とはもう別れたくない。だから何も言わないだろうなと思った。万が一愛してると伝えたとして、それで彼とどうなりたいのかもわからない。

20190729

仕事明け、公園で一時間半ぼんやりした。外で風に吹かれているとようやく気持ちが落ち着いてきた。買い物はせずに帰り、家に帰って窓を開けた。部屋には熱気がこもっていた。暑い。茅乃舎の野菜だしで豚肉と大蒜と玉ねぎを炒めて、大根を入れて少し煮た。食後、録画しておいたドラマ、凪のお暇を観ていたら途中で眠ってしまった。最近仕事で覚えることが沢山ありすぎて、脳の疲労がひどい。横になるとコトンと眠ってしまう。目覚めると十時半だった。キッチンで食器を洗い終えてから一息ついて、椅子に座って目薬をさした。テーブルに置いたiPhoneにメッセージが届き、開くと前の恋人からだった。来月、久しぶりにそちらへ旅行に行きます。会わない間にまた別の土地へ転勤したようだった。彼と別れて何年経つのだろう。遡って数えていった。三年半だ。何度かやりとりをして会う日程を決めた。飛んでいきます、と彼から返事が来た。グラスの水を一杯飲んで、窓の外を眺めた。家に帰ってきた時より少し涼しくなった気がする。一緒にいた頃、仕事の合間を縫うようにして彼と会っていた。飛んでいきます。懐かしいフレーズだ。

20190728

カウンターでビールを買って、薄暗いフロアへ入った。午前一時半。フロアには寒いくらい冷房が効いていて、ひんやりとした尖った音楽が流れていた。立ち飲みができる長テーブルに肘をついてビールを飲んでいると、前の方に彼の後ろ姿を見つけた。風情がある。私はそのまま少し眺めた。例えば微かな風に揺れる柳の木のように。声を掛けに行くと、彼はこちらを見て笑った。お酒を買ってくるね。私がソファーに座って音楽を聴いていると、彼が隣に座った。お誕生日おめでとうございます。ありがとう。そっと杯を合わせた。白っぽいカクテルのようなお酒が、天井からの細い光を受けてぼんやりと浮かび上がった。よく憶えてたよね、彼が言うので、印象的だったから、と私は答えた。一年前の夏の終わり、二人で公園を散歩していた。何気なく誕生日はいつなのと彼に尋ねた。その時はもう誕生日が過ぎていて、お祝いできなかった…と私は残念がった。来年、と彼は言った。恋愛の最中で、私はめちゃくちゃに彼のことが好きだった。ずっと一緒にいましょう、二人でそんな話ばかりしていた頃。ビールを一口飲んで、お祝いは一人でも多いほうがいいでしょう?と私は笑った。それから二人で近況を話した。ゆっくりお酒を飲みながら話すのは久しぶりだった。抑揚のない冷静な声を聴きながら、彼と話していると好きが溢れると思った。身体が自然と喜んでしまう。何気ない会話の中で笑い合いながら、私は深くリラックスしていた。この人は私の大事な人だ、そう思った。わずかに触れ合うTシャツ越しの腕から体温が伝わってきた。ねえ、新しい一年でどんなことがしたい?私は彼に尋ねた。