沢渡日記

日々徒然

20190813

カウンターの端で、トマトサワーを飲みながら本を読んでいた。本棚からふと手にして、椅子に座ってパラパラとめくり始めた。それはハワイの奥深いヒーリング手法についての本だった。記憶をクリーニングする、という言葉が繰り返し出て来た。不思議な気持ちになって、あちこちを飛ばし飛ばし読んでいくと、メビウスの輪について描かれたページを指先が何度も開いた。店主にこの本買います、と声をかけて支払いをして、改めてゆっくり読み始めた。途中で食事が出てきたので、一旦本を置いて食べて、また読んだ。店に大声で話しながら入って来た男女が隣の席に座った。仲間が集まって来て、全員で品のない会話を繰り広げ始めた。空気がどんどん濁っていくのを感じた。窒息しそうになって顔をあげると、カウンターの中では店主が凛とした佇まいで働いていた。ショートカットの襟足からうなじにかけてのラインが美しかった。店の外に出ると空気が濃く感じられた。私は深呼吸をして駅までの道を歩いた。家に着き、暗い部屋の中でメビウスの輪を思い浮かべて目を閉じた。私には成就の先にある日々のイメージがない、そう思った。全ての男を放してしまったのは、何もない場所に立ってゼロから構築したかったから。同じことだ。私はいつも同じことをしている。ゼロからイチにするまで、そこにしか存在していない。

20190811

長い沈黙の後、それで…ちゃんは、どうしたいとかあるの、と彼が聞いた。わからない、と私は呟いた。少し考えて、これ以上あなたと別れたくない、と小さく答えた。向こう側から音楽が聴こえてきていた。私はハイネケンの瓶を持ち上げて一口飲んだ。瓶の緑色が指先に映った。これ以上別れたくない、それは彼も同じだと言った。そう、私は返事をした。それから二人とも少し黙った。私たちは遠い場所から愛し合っていると思った。種類は何だろう。人間愛かもしれない。隣に座る彼の気配はあまりにも自然だった。私は安堵しそうになって、心にふっと影がさした。例えば彼と一緒にいることになったとして、上手く行く自信はなかった。感情の量が多すぎて、穏やかな日々では処理しきれなくなるような気がした。そうなったら多分、決壊する…。私はハイネケンの瓶をテーブルに置いて両腕を抱えた。汗の引いた腕はひんやりとしていた。もうここから出たい。夜が更けた頃、彼の後ろ姿を遠く眺めながら思っていた。彼に会って言葉を交わすたびに気持ちが溢れてしまう。もはやどんな風に好きなのかもわからなかった。わからないから、爽やかなふりをしていた。でも、これでは完全に袋小路だ。横顔を見つめると、彼が弱く笑った。私もニッコリと返したけれど、泣き笑いみたいになったかもしれなかった。金の細い絹糸のような鎖を想った。彼にしかそれを斬ることはできない。お願いしたいことがあるの、私は口を開いた。何、と彼がこちらを見た。

20190809

仕事明け、デパ地下でとんかつ屋のお弁当を買った。ヒレカツ、海老、コロッケ。イートインコーナーで食事をした。とんかつソースと甘いじゃがいものコロッケがよく合った。一人で食事に行くと炭水化物が多くなるので、お弁当の方が栄養価が高い気がする。食後、セブンカフェでコーヒーを買って、公園を望めるベンチに座った。熱いコーヒーを飲みながらぼんやりとビルの灯りを見上げた。行き交う人が傘を差し始めた。また雨が降ってきたのか。仕事中、説明会が長引いて思うように集中できず、図書館に行くことにした。当たり前だけれど転職したばかりなので、自分のペースで仕事ができない。マドレーヌの封を切って一口食べると、バターの香りが口の中に広がった。自分がどんな風に疲れているのかわからなかった。そういう時、正しく自分を大事にするのは難しいことだ。さっき、食事の誘いがあったけれど断ってしまった。この先、好きになることのない人だった。相手の好意を引き延ばすのはよくない。さっぱりと次に行けるようにするのが誠実だと思った。連絡して、と電話番号を渡された人のことを思い出した。二週間考えたけれど、好きにならないだろうと結論した。あの人のことも断らなくてはいけない。誰のことも好きになれないのは、深く愛している人がいることが関係しているのか。シンプルに考えればそうなのだろう。立ち上がって信号を渡り、図書館へ移動した。静謐の中で二時間勉強した。ようやく気持ちが落ち着いてきた。私はこんなに一人なのに、まだ一人になりたかった。ずっと、何ヶ月もの間、祭りのお囃子の中にいた気がする。

20190808

仕事明け、ビルを出ると雨が降っていた。折りたたみ傘を広げて図書館へ向かう途中、参考書を忘れたことに気づいた。デスクの引き出しに入れたままだ。傘とステンレスボトルを二本持って、荷物は全部という気持ちになってしまっていた。タイムロス…と思いながら引き返した。フロアにはあまり人が残っていなかった。引き出しの前に屈みこんで参考書を出し、茶色の紙袋に入れた。立ち上がってちらりとフロアの奥を見ると、あの人の姿が見えた。私は踵を返してゆっくりと歩きならフロアを出た。遠ざかる背中を彼に見ていてほしいと思った。エレベーターホールに着くと、別のセクションの女性が先に待っていた。にこやかに挨拶を交わして到着を待った。午後、休憩時間に席から立った時、遠くの席にいるあの人がすっと目を逸らすのを見た。そうか…と思った。もちろん私は何もしなかった。ただ、ひっそりと気持ちを温めた。距離のある場所から視線を感じたり、でも目が合わなかったりするのは本当に素敵だ。初めて二人で話した夕方のことを思い出した。入社してひと月が経つ頃で、どうですか?と彼は聞いた。カジュアルな雰囲気のせいか初めは気づかなかったけれど、彼はまっすぐで聡明な目をしていた。優秀な人なんだろうなと思った。図書館に着くと、館内はめずらしく空いていた。私はいつものソファーに深く座り、参考書を開いた。

20190807

午後からデータの作成を始めた。説明を受けながらディスプレイを見てキーボードを打ち、マニュアルに目を落として確認する。それを繰り返していた。少し眠気を感じて、ポーチからミンティアのケースを出して一粒口の中に入れた。眠そうだった背中合わせの子にもこっそりと渡した。斜め向かいの席では打ち合わせが始まっていた。何気なく視線を送ると、その人と目が合った。不自然な瞬きをして目を逸らすのを、見なかったことにした。タブを切り替えて表示を確認していると、彼が自席の方へ戻っていくのが見えた。私は横顔をちらりと見て、ステンレスボトルのココアを一口飲んだ。青のマーカーでマニュアルにラインを引き、小さく書き込みをした。料率の二分の一を算出して入力すること。その人は同じフロアの中にいながら、ほとんど接点がなかった。数回、業務の話をしたことがあるだけだった。私は彼の目に不思議と吸い寄せられた。理由は分からなかった。どうしてだろう、と私が問うように見つめると、同じような視線が返ってきた。データが出来上がったので、印刷のチェックに入った。フォーマットをいくつか切り替えてレイアウトを確かめた。彼が水のペットボトルを片手にフロアの奥へ向かうのが見えた。気持ちが滲んでいく、と思った。不意の瞬きは偶然かもしれなかった。でもそれだけで私には十分だった。ゆっくりでいい。もし滲んだ気持ちが溢れ出てしまったら、その時にまた考えればいい。私はマニュアルのページをめくって、四角く囲まれた注意書きに目を通した。

20190804

目覚めると、窓の外にはきれいな青空が広がっていた。午後三時四十分。生乾きの髪をドライヤーで乾かして、床にぺたんと座ったまま窓からの風に吹かれた。今日も海に行けなかった、と思った。朝、彼がタクシーに乗る姿をベランダから見届けると、ベッドからシーツと枕カバーを外して洗濯機を回した。使いさしのバスタオルも一緒に入れた。シャワーから出て、頭にタオルを巻いたままグラスの水を二杯飲んだ。テーブルに置いたアイビーの葉先に少し触れると、ぷる、と震えが伝わってきた。また成長している。ふいに眠気が押し寄せてきて、床にころんと転がってウトウトした。明け方、男の隣で私は眠りに落ちた。それは滅多にないことだった。他の男と何が違うのか考えたけれど、長い知り合いであること以外は思いつかなかった。不思議と皮膚が警戒を解いた。彼のことは人として好きではあったけれど、隣で眠る相手として一度も考えたことがなかった。私という外側は無自覚で、私の内側にいる人が直接、彼の内側にいる人にアクセスしたのかもしれなかった。最近そういうことが増えている気がする。三年前、初めて彼に会った夜を思い出した。整髪料を持ってないからオリーブオイルをつけてる。階段の踊り場で、椅子に座った彼はそう言って懐っこく笑った。花のような人だと思った。立ち上がってドライヤーとトリートメント剤を片付けた。お腹すいた。これから着替えて散歩に行って、買い出しも行こう。ふと、松尾芭蕉の句を思い出した。真夏はゆっくりと着実に過ぎていく。今朝の記憶もまた、夢の跡のひとつなのか。

20190802

タクシーを降りてコンビニへ寄った。彼が白ワインを買ってくれて、ぶらぶらと家までの小道を歩いた。家に着くと熱気がこもっていて、窓を開けて風を入れた。全然変わってない、隣に立った彼はそう言って窓の外を眺めた。冬しか来たことなかったでしょう。そうだね、一面真っ白だった。小さく音楽をかけて、二人で白ワインを飲んだ。彼とは三年半、一度も会わなかった。でも二人で話しているとあまりに自然で、時間が経った気がしなかった。眼鏡の形が変わっている、それくらいかもしれない。自分では選べない環境の中で得られることもあるよ。彼は言った。そうやって変わっていく人が九割。わかるよ、私は答えた。空のグラスをテーブルに置いて、彼は続けた。でもその世界だけでは本当の自分を失う気がする、だからフラフラと飲み歩いてしまう。四年前も同じことを言っていたな、と思い出した。二つの世界を行き来すればいいじゃない。私は答えて窓の外を見た。漆黒の空に月の姿はなかった。新月かもしれない。…さんは全然変わらない、彼が言った。あなたもね。そう答えながら、この人にとって私は向こう側の世界にいる女なんだな、と思った。送りましょうか。私が言うと、彼は立ち上がって、ギュッとしたら帰る、と言った。それから長いハグをした。懐かしかった。でも私はもう彼のことが好きではないんだなと気づいた。会わなかった時間のことを少し思った。キスを躱して顔を上げた。キリがないから終わり。ニッコリとそう言って、足りない、と甘える彼を玄関まで送った。