沢渡日記

日々徒然

20190823

お疲れさまです。廊下でばったり会ったので、私は控えめに声をかけた。低く響く声でさらっと挨拶が返ってきた。今日はブルーのシャツにベージュのパンツを合わせている。前に会った時より少しラフだ。夏仕様かもしれない。足元は黒のスニーカーだった。転職活動をしていた頃、Webサイトで社長のことを知った。事業に対するメッセージを読んで、とてもいいと思った。ここに行きたい。その後入社して、実際に会ってみると想像していたより百倍は素敵だった。話し方はフランクで聡明、立ち居振る舞いは堂々としていて爽やかだった。そのバランスは満点を上回る。大幅に。素敵な人っているんだなぁと思う。フロアに戻ると、社長はその辺の空き机で、ノートパソコンを開いて仕事を始めていた。後ろ姿を眺めて自席へ戻った。話しかけたかったけれど話すことがなかった。今のところは。でも、もし縁があるなら届くかもしれない。HOWとWHATで考えるのが大事だ。対談集の中で、科学者の石川博士が言っていた。WHYで考えると広がりが生まれない。わかる気がした。そう考えてみたら、今なぜここで働いているのかも未だによくわからない。流れに運ばれたから。理由は自分で後付けしているだけかもしれない。何でも。そういうのはもういいんじゃないかと思った。

20190821

仕事明け、直行で図書館へ行き、閉館まで勉強した。コーヒーとココアのブレンドをステンレスボトルに入れて傍に置いて、三時間半集中した。帰りがけ、最寄駅の一つ前で降りて、スーパーへ寄った。こちらも閉店間際。サービスカウンターで会計をしていたら、従業員の女性が割引シールの貼られたサータアンダギーのパックを持って後ろに並んた。さっき迷ってやめたやつだ。家に帰り、豚肉とセロリを炒めて醤油を回しかけた。ワインビネガーも入れたいと思ったけれど家にはない。食事をしながら、さっき買ったキレートレモンを開けて、ワイングラスに注いだ。グラスの半分より少し下、品のある量に収まった。最近は何でもワイングラスで飲む。白ワインはもちろん、水、アイスコーヒー、アイスティー、この前はバニラアイスとクラッシュアーモンドを浮かべてフロートにした。友達が去年バーを閉めた時に引き取ってきたものだ。音楽をぼんやり聴きながら男のことを考えた。本当はもう一緒にいるのは難しいとわかっている。そんな気がした。じゃあどうして好きって伝えたのか?わからない。彼と深く愛し合いたい。でも一緒に暮らしたり添い遂げたいのとは違う気がする。それを言い始めたら誰に対しても同じかもしれない。気持ちはあるけれど実現する方法がわからない。一方で、成就から逃げるのはもうやめにすることにした。この先どうなるのか。皆目わからない。

20190817

夕方、木漏れ日の下で本を読んでいた。村上春樹騎士団長殺し。まりえの空気を斬るような鋭さに感じ入った。この物語は数ページ読む度に神聖な霧に包まれるような気持ちになり、長く読み進めるのが難しい。本を閉じてベンチから起き上がり、ステンレスボトルの熱い紅茶を飲んだ。友達からジンギスカンとシシャモを焼くから家に来ないか、と連絡があった。待ち合わせの時間に間に合わなさそうだったのでお断りした。ハードカバーを何冊か積み上げて枕にして、ごろりと仰向けになった。緑のモザイクの隙間から、くっきりとした青空が見えた。今年の夏はずっとこうして森の中にいる気がした。ふと、昨日一緒にお酒を飲んだ人との会話を思い出した。頭を使い続けていたいんです。彼はそう言った。ちょうど今、新しい知識を習得している最中のようだった。最高だなと思った。私と全く同じだ。転職した理由がそれだったな…と思い返していた。狭く限定した知識ではなく、広く人の役に立つ知識を身につけたかった。そしていずれ、仕事を通して社会に還したい。今は必要な知識が多すぎて、事務所にいる時間だけではとても追いつかない。それで仕事明けに図書館へ通って勉強しているけれど、全く苦ではない。本当にしたいことは仕事でも勉強でも全部遊びの感覚だ。西からさらりと乾いた風が吹いた。日焼け避けのカーディガンの前を合わせて、私は再び本の続きを開いた。騎士団長がイデアについて説明をしていた。あらない。

20190813

カウンターの端で、トマトサワーを飲みながら本を読んでいた。本棚からふと手にして、椅子に座ってパラパラとめくり始めた。それはハワイの奥深いヒーリング手法についての本だった。記憶をクリーニングする、という言葉が繰り返し出て来た。不思議な気持ちになって、あちこちを飛ばし飛ばし読んでいくと、メビウスの輪について描かれたページを指先が何度も開いた。店主にこの本買います、と声をかけて支払いをして、改めてゆっくり読み始めた。途中で食事が出てきたので、一旦本を置いて食べて、また読んだ。店に大声で話しながら入って来た男女が隣の席に座った。仲間が集まって来て、全員で品のない会話を繰り広げ始めた。空気がどんどん濁っていくのを感じた。窒息しそうになって顔をあげると、カウンターの中では店主が凛とした佇まいで働いていた。ショートカットの襟足からうなじにかけてのラインが美しかった。店の外に出ると空気が濃く感じられた。私は深呼吸をして駅までの道を歩いた。家に着き、暗い部屋の中でメビウスの輪を思い浮かべて目を閉じた。私には成就の先にある日々のイメージがない、そう思った。全ての男を放してしまったのは、何もない場所に立ってゼロから構築したかったから。同じことだ。私はいつも同じことをしている。ゼロからイチにするまで、そこにしか存在していない。

20190811

長い沈黙の後、それで…ちゃんは、どうしたいとかあるの、と彼が聞いた。わからない、と私は呟いた。少し考えて、これ以上あなたと別れたくない、と小さく答えた。向こう側から音楽が聴こえてきていた。私はハイネケンの瓶を持ち上げて一口飲んだ。瓶の緑色が指先に映った。これ以上別れたくない、それは彼も同じだと言った。そう、私は返事をした。それから二人とも少し黙った。私たちは遠い場所から愛し合っていると思った。種類は何だろう。人間愛かもしれない。隣に座る彼の気配はあまりにも自然だった。私は安堵しそうになって、心にふっと影がさした。例えば彼と一緒にいることになったとして、上手く行く自信はなかった。感情の量が多すぎて、穏やかな日々では処理しきれなくなるような気がした。そうなったら多分、決壊する…。私はハイネケンの瓶をテーブルに置いて両腕を抱えた。汗の引いた腕はひんやりとしていた。もうここから出たい。夜が更けた頃、彼の後ろ姿を遠く眺めながら思っていた。彼に会って言葉を交わすたびに気持ちが溢れてしまう。もはやどんな風に好きなのかもわからなかった。わからないから、爽やかなふりをしていた。でも、これでは完全に袋小路だ。横顔を見つめると、彼が弱く笑った。私もニッコリと返したけれど、泣き笑いみたいになったかもしれなかった。金の細い絹糸のような鎖を想った。彼にしかそれを斬ることはできない。お願いしたいことがあるの、私は口を開いた。何、と彼がこちらを見た。

20190809

仕事明け、デパ地下でとんかつ屋のお弁当を買った。ヒレカツ、海老、コロッケ。イートインコーナーで食事をした。とんかつソースと甘いじゃがいものコロッケがよく合った。一人で食事に行くと炭水化物が多くなるので、お弁当の方が栄養価が高い気がする。食後、セブンカフェでコーヒーを買って、公園を望めるベンチに座った。熱いコーヒーを飲みながらぼんやりとビルの灯りを見上げた。行き交う人が傘を差し始めた。また雨が降ってきたのか。仕事中、説明会が長引いて思うように集中できず、図書館に行くことにした。当たり前だけれど転職したばかりなので、自分のペースで仕事ができない。マドレーヌの封を切って一口食べると、バターの香りが口の中に広がった。自分がどんな風に疲れているのかわからなかった。そういう時、正しく自分を大事にするのは難しいことだ。さっき、食事の誘いがあったけれど断ってしまった。この先、好きになることのない人だった。相手の好意を引き延ばすのはよくない。さっぱりと次に行けるようにするのが誠実だと思った。連絡して、と電話番号を渡された人のことを思い出した。二週間考えたけれど、好きにならないだろうと結論した。あの人のことも断らなくてはいけない。誰のことも好きになれないのは、深く愛している人がいることが関係しているのか。シンプルに考えればそうなのだろう。立ち上がって信号を渡り、図書館へ移動した。静謐の中で二時間勉強した。ようやく気持ちが落ち着いてきた。私はこんなに一人なのに、まだ一人になりたかった。ずっと、何ヶ月もの間、祭りのお囃子の中にいた気がする。

20190808

仕事明け、ビルを出ると雨が降っていた。折りたたみ傘を広げて図書館へ向かう途中、参考書を忘れたことに気づいた。デスクの引き出しに入れたままだ。傘とステンレスボトルを二本持って、荷物は全部という気持ちになってしまっていた。タイムロス…と思いながら引き返した。フロアにはあまり人が残っていなかった。引き出しの前に屈みこんで参考書を出し、茶色の紙袋に入れた。立ち上がってちらりとフロアの奥を見ると、あの人の姿が見えた。私は踵を返してゆっくりと歩きならフロアを出た。遠ざかる背中を彼に見ていてほしいと思った。エレベーターホールに着くと、別のセクションの女性が先に待っていた。にこやかに挨拶を交わして到着を待った。午後、休憩時間に席から立った時、遠くの席にいるあの人がすっと目を逸らすのを見た。そうか…と思った。もちろん私は何もしなかった。ただ、ひっそりと気持ちを温めた。距離のある場所から視線を感じたり、でも目が合わなかったりするのは本当に素敵だ。初めて二人で話した夕方のことを思い出した。入社してひと月が経つ頃で、どうですか?と彼は聞いた。カジュアルな雰囲気のせいか初めは気づかなかったけれど、彼はまっすぐで聡明な目をしていた。優秀な人なんだろうなと思った。図書館に着くと、館内はめずらしく空いていた。私はいつものソファーに深く座り、参考書を開いた。